俳優座劇場の「十二人の怒れる男たち」を見た。 ( 観劇 )

俳優座劇場の「十二人の怒れる男たち」を見た。

 

 とても面白かった。さすが俳優座だ。文学座俳優座から集まった十二人の俳優はそれぞれの持ち分をわきまえ、すばらしい演技力だ。もともとの台本がすぐれているのだろうが、話はテンポよく進み、観ているものを飽きさせない。それどころか、2時間超の公演も苦痛を感じることもなく観ることができた。演出者の意図通り、真ん中で15分の休憩をとってしまったら、その臨場感は半減するにちがいない。

 ただ、観終って、一つとても残念な点があった。それは翻訳劇の限界なのかもしれないが、演出者としてはその限界を破る工夫をしてほしかった。残念な点とは、十二人の男たちが背負うバックグラウンドや経歴や人生をもう少し語ってほしかったということだ。原語の英語であれば、恐らくその訛りやアクセントや用語法などから、これらの点は自然に語られることになるのだろう。あのことば使いはスラム育ちだとか、あの強い訛りはユダヤ系だとか。あんな物言いは銀行マンだとか。日本語に翻訳してしまったら、それは表現しにくい。そして、陪審制度のなかでは個々人が何者かは自ら語ることは基本的にご法度にちがいないが、舞台上でも多少はそれについて言及があった。しかし、それが不十分だというよりも、その点が欠如しているので、劇のもつ文学的深さを損なってしまったように思われる。

 全体としてとても楽しめたが、観ながら思ったのだ。この男の職業は?あの男の出身地は?なぜ、この男は有罪にこだわるのか?最後まで有罪を主張する男については、この点にスポットがあてられ、多少その人生が垣間見られたが、他の男たちについてはあまり語られない。演出者としては、一人にスポットをあてることで十分だと判断したのかもしれない。しかし、一人の少年の生き死に関わっている判断を下すに、全員のとはいわないが、少なくとも半数の人間の生きざまがもっと語られるべきである。それを演劇的にもっともっと追及すべきだ。そして、その余地はあると思った。

 こんな方法をとれば、その点は簡単に補える。多くの上演においてそうなっているだけかもしれないが、俳優座の舞台では大部屋の一角にトイレが配置され、登場人物はそこに入れ替わり立ち代わり出入りする。あそこは私的場だ。演劇的にトイレは多少利用されたが、もっともっとうまく利用すべきだ。その利用法は充分だったとはけっしていえない。翻訳本にはないとしても、あそこでそれぞれの男たちの生きざまを短いことばでうまく語らせるべきだ。俳優座ならできるはずだ。