道徳教育

道徳の教科化を修身科の復活だと批判。または修身科こそが歴史的遺産だと評価する。正反対のことを言っているようだが、どちらも修身科が効果的に機能していたことを前提としている点で同じである。日本の教育史を紐解ひもとけば、修身科の授業が形骸化していたことが分かる。偉人の格言を暗誦あんしょうし、修身科が道徳的価値徳目や人間としての生き方の型モデルを提示したことは確かだからであります。価値の押し付け批判に圧倒され、道徳的価値を教えることに消極的となった。戦後の道徳授業が、読み物資料の登場人物の心情のみを追うことに傾斜したのは、このことと無関係ではありません。

道徳教育で大切なことは、認知的側面価値理解、情意的心情側面、行動的側面の3つをバランスよく育成することであります。どんなに気高い心情を持っていても、それが的確な判断力に裏打ちされ、行動に結び付かなければ意味がありません。修身科も戦後の教育もまた、道徳教育の必要性を考えるべきであります。

道徳的諸価値についての理解を基に、自己を見つめ、物事を多面的多角的に考え、自己の生き方についての考えを深める学習を通して、道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てるとされ、多様な価値観の、時には対立のある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質であるという認識に立ち、発達の段階に応じ、答えが一つではない道徳的な課題を一人一人の児童生徒が自分自身の問題と捉え、向き合う考え、議論する道徳へと転換を図るものである考え、議論することを欠いては、道徳教育の充実は望めないからだ。

そもそも道徳教育の目指すものは、道徳的諸価値の自覚である。ただし、ここでいう自覚とは、単純に物事を知識として知ることではなく分かるあるいは腑ふに落ちるという性格のものであります。そして分かる腑に落ちるという自覚に至るためには、どうしても考えるということが必要であり、他者との議論が求められる。もちろん、他者には、自分を見つめる自己も含まれており、内省や自己内対話は、道徳の学びにおける重要な柱であります。

つまり道徳的諸価値の自覚とは考えることを通じて、自己を含めた他者と対話し、議論することによる腑に落ちるという経験をして知るから自覚へとつなぐための道が考え、議論する道徳であります。

?育ニ關スル勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ?育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ